サッカー部の思い出。

  • 2015.06.03 Wednesday
  • 15:56


皆さんこんにちは、タイムポカンです。

今日もこのブログをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。





今日は本来定休日ですが、あまりにも暇なもので・・・・・思い切って出社してみました!





今回の投稿は、前回の予告通り中学生の時に夢中だったサッカー部のことです。

一言でいうと、当時のサッカー部は怖かったですねぇ。





先輩、それも三年生の先輩の言うことなんかは絶対でしたね。

部室は基本的に三年生しか使えなく、二年生と一年生は部室の建物と植木の間の猫の額ほどの狭い

スペースで着替えをしたりしていたものです。





一緒に入部した同級生にOというヤツがおりまして、いわゆる天然キャラでした。

例えば、リーガルをリガールなど云いヘラヘラしているのです。

柄にもなく空手など習っているらしく、たまに蹴りの構えなどをして見せて、我々を驚かせましたが、

そんなキャラクターが三年生には大人気で、入部早々マスコットボーイ的な存在になってしまいました。





練習前にグランド5周が課せられていましたが、Oは遅れてやってきて1周走っただけでお咎めなしです。

徐々に天然の奔放さを現し出したOの存在に、面白くないのは二年生だったんですね。

Oの特別待遇に同級生でも不公平感を感じていましたからね。





地区大会が迫ってきた練習後の夕暮れ時、例によって部室裏の茂みの間で二年生と一年生は着替えをし

ていました。サッカーをやるには、まずサッカーシューズ、シューズ入れ、ソックス、すね当てが必要

で割と荷物があるのです。





狭く薄暗いスペースで、Oのある天然ぶりの行動に、とうとう一人の理論家の二年生が怒り始めたの

です!





無論、暴力などは振るいませんでしたが、ヘラヘラしているOに対して諭すように話を続けていて、そ

れを皆で黙って聞いていましたが、その二年生の先輩が何度も言う「Oよ、あんまり図に乗ってんじゃね

えぞ」という表現を何度も耳にしているうちに・・・・・不謹慎ながら無性に笑いが込み上げてきて、涙

が止まらなくなってしまうくらい笑ってしまったんですね。Oも相変わらずヘラヘラしていて、やがて二

年生の先輩も笑い出し、みんなで笑ってしまった・・・・・。





何故、あの時あんなに笑ってしまったのだろう、と考えるとおそらく、図に乗るという表現がちょっと大

人びていて、小学校では教わらない慣用句であって、中学校に上がってこれから少しずつ大人に近づいて

行くという一種の高揚感だったのでしょう。また理論家の二年生の先輩とOとのコントラストがそれに拍

車を掛けていたのは、言うまでもありません。






三年生が引退後、Oの天然ぶりも控えめになってきて、真面目に練習に取り組んでいましたが、なかなか

レギュラーにはなれなかったんですね。

三年生になってOも晴れてレギュラーになり、ポジションはバックス。





ゴール前のコンビネーション練習で、ヘディングシュートをしようと飛んできたボールに思い切りジャン

プをした瞬間、Oの石頭と思い切り頭突きをしてしまい、空中で見事に火花が飛び散ったこともあったの

です!思わずイッテーなどと叫んでしまい、グランドで頭を抱えたものです。平気な顔をしているOには

閉口させられましたが、今となってはいい思い出です。





辛くとも楽しくもあったサッカー部。

まるで笑い茸でも食べてしまったかのように笑いが止まらなくなってしまったのは、後にも先にもあの時

だけだったですね。





そんな瞬間が、あなたにもあったことでしょう。





さて次回は、最近ハマっているアイロン掛けについて投稿をする予定です。

タイムポカンでした。


高橋信次さんのこと。

  • 2014.02.23 Sunday
  • 18:32


こんにちは、吉田です。



今日は真冬の寒気が緩み、青空が広がった。

雪解けも進んできた。




最近、高橋信次さんの本を再読し始めた。

精神世界ではとても有名な人である。

小林正観さんや船井幸雄さんの著書にも、その名前は出てくる。




心の発見シリーズは出版されてからすでに40年ぐらいの歳月が流れているが、

今読んでみても新たな発見がある。




他人を軽蔑したり、自己の欲望のみにとらわれる行為は、人間の屑であると

書かれていて、心にグサッときた。




他には、己には厳しく、他人に甘く。増上慢とならぬように、などもグサッ

ときた。




ごく当たり前の言葉なのだが、文章全体を読み返すと内容が深く心に入って

くるのが不思議だ。




本にも出会いの時期というものがある。

今が、その時期なのであろう。

プレミアムアーカイブス 一時帰国。

  • 2014.01.30 Thursday
  • 19:37


今日は午後からチラシのキャッチコピーを考案した。

昔のキャッチコピーも参考になる。





「ハワイ一回、ミンク一生」1984京王百貨店。

「夫を忘れる3時間」1974東急/習い事。

「歯医者が通う飯田歯科」1997飯田歯科センター。

どれも面白い。





「中古でいい」から「中古がいい」のキャッチもいいが、上記に比べて

インパクトに欠ける気がする。

なかなか難しい。





さて、タイトルの件。

昨日の休日に何気なく見ていた番組だったが、いろいろ考えさせられた。





1974年に放送された番組だった。





戦後30年が経過し、日中国交正常化も契機となって中国残留孤児の方達が日本

へ一時帰国をした。





37歳の女性を中心に、その長女15歳、長男13歳をカメラは追った。

30年という長い年月で、彼らは日本語が話せない。





親戚の叔父の家を訪ねたが、その叔父は日本語が話せない彼らに、苦虫をかみ

つぶしたような表情で終始、接していた。





13歳の男の子は、おもちゃで楽しそうに遊んでいた。





その後、三重の母親の妹の家を訪ねた。妹と言っても齢は70歳を過ぎている。

そこで古いアルバムを見て、そこに母親に抱かれている自分を、37歳の女性は

見つけ、叔母の肩にそっと両手を重ねて、泣いた。





叔母は何も言わず、じっとしていた。





福岡港は青い空と白い雲。一時帰国の残留孤児の方達を出迎えようと、歓迎す

るための高校生200名は、お揃いの水色の制服に白いベレー帽を被っていた。

応募は2000名だったそうだ。





歓迎ムード一色の賑やかな港。絶え間なく流れる楽団の華やかなマーチ。

どこか不安そうな表情で、暗い色の服を着た残留孤児の人々とのコントラスト

がそこにはあった。





叔母の家で一時帰国期間の6ヶ月を過ごすうちに、彼らは片言だが日本語を話

せるようになってきた。

特に子供達は、発音に難があるものの習得が早かった。





帰国の日。

叔母の家族が駅のホームで見送りをしてくれた。

汽車が動き出し、窓を開けて長男は、片言の日本語で「おばあちゃん」と大声

で叫んだ。声を枯らしながら、何度も何度も叫んだ。深緑の帽子を振っては、

何度も叫んだ。





胸が締め付けられそうになった。

叔母は、和服を着ていて凛としていた。





番組の最後で、この時の長男は現在、名古屋にご家族と住んでいる、といった

ナレーションがあり、幸せに暮らしているとよいと思った。





37歳だった女性は、現在も中国で暮らしており、幼なじみだったご主人と幸せ

に暮らしている。





30年という長い歳月は、言葉や食習慣、しいては文化や価値観まで変えてしま

い、そのコントラストを映像で上手に表現できていた。





でも根底にある、胸を締め付けられるような感情は、変わらないものなのだ、

といったメッセージも込められており、素晴らしい番組だと感じた。


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チバリヨー具志堅。

  • 2012.11.22 Thursday
  • 20:03


今日は午前中から調査で猪苗代役場へ。

その後、物件の写真を撮影し、会津若松の法務局へ行った。


写真は箕輪山。亀ヶ城本丸より撮影。





磐梯山もいいが、箕輪山の緩やかな稜線のほうが個人的には好きだ。

箕輪山の向こうには、理想郷があるようなイメージをいつも抱いてしまう。

不思議な山である。





車を運転していると、いろいろな事を考える。





タイトルはNHKのファミリーヒストリーという番組で放送された印象に

残った言葉。





番組は毎回、ゲストの家族の歴史を探っていくといった内容で、ゲストの

知らないエピソードなどもあり、興味深い。





具志堅用高がボクシングを始めることに猛反対した父親が、初めて試合を

見に行ったのは、具志堅用高が世界チャンピオンに挑戦者として臨む試合

だった。





試合場所は、本土の甲府。





新聞では、世界チャンピオンのグスマンが圧倒的に優位と報じていた。

ゴング開始直後からチャンピオンの容赦ない攻撃が続いたが、具志堅は耐

えた。





やがて会場から、沖縄の言葉で応援する若者達がいるのに父親が気付いた。





若者達は具志堅と同じように本土へ働きに来ていて、チバリヨー具志堅と

書いた、大きな横断幕をかざして応援をしている。





父親も若い頃、生活の為に本土へ出稼ぎに行ったが、自分の苗字が変わっ

ていることを同僚にからかわれた経験があった。





チバリヨー具志堅。チバリヨー用高。





地元の言葉の応援を受けた具志堅用高は、徐々に形勢を逆転し、ついに第

7ラウンドでグスマンからダウンを奪った。

そしてそのまま、チャンピオンをマットに沈めた。





世界チャンピオンとなった具志堅用高。

試合後に父親と母親が試合を見に来ていたことを知らされ、リングサイド

で撮った写真が印象的だった。





母親は泣いており、父親は笑顔だったが、具志堅用高は斜め下のほうを無

表情に見ていた。それは世界チャンピオンとしてのそれではなく、親の反

対を押し切って、ボクシングの世界へ進んだことへの憂いを帯びた青年の

表情だった。





後に具志堅用高は、13度の世界戦防衛を果たした。

この記録は、未だに破られていない。


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2000年当時。

  • 2008.12.18 Thursday
  • 22:00


昨晩は、全日本不動産協会の地区忘年会があり出席しました。

お隣に座っていた社長は、バイクチームを持っておりそのチーム名は『サン

ライズ サンセット』だそうです。以前から当社の社名の由来を聞いてみた

かったとのことでした。




社名の由来は(ホームページに掲載の通りですが)、一陽来福を一言で表

し、わかりやすい言葉を考えた時『サンライズ』が一番しっくりきたもの

で・・・といったご説明をさせて頂きました。





不遇な時、苦しい時が去って、やがて暖かい春がやってくるイメージです。





2000年の5月の連休が明ける頃、おふくろが寝たきりとなり、介護が必要とな

りました。おふくろは、10年以上前に国の指定を受けた難病にかかり、強い

薬の副作用で当時、顔の形が変わってしまいました。





それからしばらくは何ともなく、仕事もしていたのですが、2000年の5月に右

足首が化膿してしまい、足を床に着けない状態となってしまいました。





私は、それまで勤めていた会社を辞めました。





夜になると、あまりにも痛がるので、『明日、病院へ行ってみるか』と声を

かけますが、おふくろは『これはインターフェロンの副作用だから、絶対に

行かない』と言い張りました。





時間がかかっても医者には頼らない、とのことで、知合いからドクダミを譲

ってもらい、煎じて大きなタライに入れ、足を浸したり、毎朝、磐梯熱海温

泉の元湯の源泉を汲んできて、午前中は陽のあたる場所へおいて、あたため

たりしました。





当時、私は29歳で、このままこの介護生活はあと何年続くのだろうと考える

と、世間から取り残されてしまったような寂寥感がありました。

同年代の人達は、出世コースに乗っていったり、結婚をしたり、日々の生活

を楽しんでいたり。





病人というのは、わがままです。テレビを観ていて笑っただけでも、不機嫌

になります。食べたいものを聞いてから食事を作っても、少ししか食べてく

れません。





ある時『りんごが食べたい』と言いだし、新鮮なりんごを買ってきて、皮を

むいて出したところ、『こんな硬いりんごは、食べられない』と言って泣き

出してしまった時がありました。私はほとほと困ってしまい、考えたあげ

く、りんごをすりおろして出しました。





おふくろは、何も言わずに食べていました。泣いていたようでした。

このような介護生活が約1年間続きました。





今にして思えば、あの頃は、いつもうつむいて生きていたように思います。





今、世間では、不景気のあおりで雇用、所得とも先行きが見えない不安があ

ります。いつまでこの状態が続くのだろう、と誰しもが思っています。





でも、一陽来福、悪い時ばかりが続くことはありません。雲の隙間から光が

差してくる時もあるでしょう。




その時が来るまで、力を蓄えておきたいものです。

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